ハヤシレーシング ヒストリー

Hayashi Racing History
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レーシングカー製造部門、鈴鹿へ

702x 東大阪の工場から、より良い環境と設備を目指して1977年8月にスズカ工場(スズカ事業部)をスズカサーキットに程近い場所にオープン、レーシングカーコンストラクターとして万全の体制を整える。



1978年に入ってFL550のニューシャーシ712のテストが繰り返されるが、前作711Bのパフォーマンスを上回れず、直ちに設計変更が行われた。アルミハニカムのモノコックの外側にアルミパネルによるストラクチャーを追加し強度をアップさせた。
またフロントのロッキングアームや数々のパーツがアルミキャスティングで製作され、量産のための工夫がなされている。またカウルワークも一新され、低ドラッグと一体化されたリアウイングにより、空力面でより安定した車に仕上がっている。

結局プロトタイプからは別の車に仕上がったが、これが功をなし712は以降FL550レースを席巻する。各チャンピオンシリーズで、チャンピオンやシリーズ上位を独占する。このマシーンからステップアップしていったドライバーは多い。

中本健吾、中野常治、小川等、皆川直樹、井倉淳一、高橋徹、江見和男、大村誠二、吉川とみこ、ほか多数、生産台数32台。





1979年から始まったF-3シリーズに参戦すべくマシーンの構想が練られ、デザイナーに小野昌郎(現東京R&D)を起用。1980年にF-3マシーン803とFPマシーン80Pが完成したが、共にセティングに苦しみ、戦闘力があまり高くなかったために、新たなマシーンの開発を迫られる。

1981年に新たなF-3マシーン320が完成、ハニカムパネルをやめツインチューブのアルミモノコック構造を採用した。
中子修がデビューウインを含む8戦中4勝をマークして見事シリーズチャンピオンを獲得する。

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220PまたF-3と平行してに開発されたFPマシーン220Pが新たに登場、中子修のドライブでシーズンを戦った。フォーミュラアトランティック仕様の220Aはこの年のマカオグランプリにアメリカ人ドライバー、ボブ・アールのドライビングで出場、見事優勝を飾る。グランプリレースでの、日本製フォーミュラーカーとしては、ホンダF-1がメキシコで優勝して以来の大快挙となる。

前年度のチャンピオンマシーン320はトレッドが広げられ320/82となった。また、中子修がマールボロシリーズ(ヨーロッパ)に遠征するために321が2台造られたが、これはリアサスペンションを新しくし、ウィングカーとしてよりリアのエアの抜けを考えられたものだ。

FPマシーンの221P、輸出用の221Aがそれぞれ1台づつ造られ、221Aはアメリカで使われた。



また新たに始まったFJ1600シリーズ用に410Jを製作、高橋徹が3勝した他,入賞多数を獲得する。

1982年は特別な新車を製作せずに、前年度のマシーンをマイナーチェンジし、よりポテンシャルアップを図った。FJの411Jは、前年の410Jのカウルワークを大幅に変更し、サスペンションのジオメトリーも変更し、より速いマシーンに成った。

生産台数30台(410Jを含む)。

1983年に入って、かねてからの計画であった、アメリカ市場進出のためにフォーミュラフォード412Fを2台製作して輸出、デビューレースで見事優勝する。

FJ411Jのシャーシにマツダのロータリーエンジンを積んだ、ワンメイクレースのために新たに40台のシャーシを輸出することになる。

1985年にレーシングカー製造部門は東京R&Dに売却。

ハヤシの名の付いたレーシングカーは1985年をもって、製造を終了する。

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