ハヤシレーシング ヒストリー

Hayashi Racing History
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「ハヤシレーシング代表 林将一は、日本レース界に有形無形のさまざまな足跡を残してきた。レーシングマシンのコンストラクターであり、レーシングドライバーとしてハンドルを握ったこともある。チームオーナーの立場でも若手ドライバーを育てるなど、レース業界全体の発展のために尽力した。現在はマシン製作などのレース活動は行っていないが、ハヤシストリートホイールの製造販売は継続し、好評を得ている。

林将一は1942(昭和17)年、東大阪で生まれた。実家は祖父の代からのセルロイドの素材を使った商品の製造販売を営み、伯父は京都で画家をしていた。その伯父の長男 林みのるも、同じく自動車の道に進んだ。後に『株式会社童夢』を共同で設立する事になる。」

伝説のカーマンアパッチ&ハヤシホイール

1969年10月10日に富士スピードウエイで開催される日本グランプリGPⅡクラスに出場すべくかねてより構想中であったホンダ1300CC空冷エンジンをミッドシップに搭載した2座席レーシングカー(カーマンアパッチ)を完成させた。日本グランプリへの初チャレンジは予選29位(2′16″94)で、決勝は11周目でドライブシャフトの破損でリタイヤに終わってしまったが、同年11月3日に行われた全日本鈴鹿自動車レースでは予選3位、決勝5位と好成績を収めた。

カーマンアパッチカーマンアパッチ

又、このカーマンアパッチ用に特別に作られたレーシングホイール(アルミ製)が後に一般車用にモデファイされて販売したところ大ヒット商品となる。ハヤシストリートホイールの原型その物だった。

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