ハヤシレーシング ヒストリー

Hayashi Racing History
1 2 3

コンストラクターとしてのハヤシレーシングの始動

カーマンアパッチの製作後、JAFのジュニアフォーミュラ構想から始まったFJ360シャーシーの開発に1970年に着手したハヤシレーシングは、プロトタイプの702Xを製作、次いで量産モデルになる702を製作、田中弘(ヒーローズレーシング代表)がデビューウインを飾る、その後は数々の勝利とシリーズチャンピオンを収め、総生産台数28台を数えコンストラクターとしてのハヤシレーシングの基盤を築く。

702x702702702

1971年には、5月に行われる日本グランプリ用に2シーターカー705を製作、グランプリは3位に終わったが、11月の鈴鹿では日産ワークスを向こうにまわし、全日本選手権総合優勝を飾る。スポーツカーから始まったハヤシの夢の到来です。勿論ホイールはオリジナルのハヤシ!

705705705705

1972年に入り、702の後継モデルである706を製作、FL500に名称変更され、パワーアップされると共に、スズキフロンテのエンジンが台頭し始めたため、ホンダ、スズキの両エンジンが搭載できるように成った。当時のホンダエンジンは500CC4ストローク、スズキは420CCで2ストローク。多くのドライバーが数々の勝利を獲得し、36台を製作しFL500の標準モデルとなる。

706706706706706

1973年にはFLとF-2の間に位置するFJ1300、708を製作しワークスドライバーとして、日産の歳森康師を迎え入れる。その歳森が4月の筑波サーキットのデビューレースで見事優勝!5月の日本グランプリでは、林が優勝!2位に坂口顕が入り見事1-2を達成。生産台数5台。

708708708708

1974年に入ってFL500の709の開発がスタート、メインフレームにアルミモノコックを採用し、リアカウルと一体化したウイングを装着、モノコックの製作には、ハヤシレーシング独特の製法が用いられ、最初から量産するための設計が行われた。力身修を始めとする数々のドライバーが活躍し、幾多の勝利を収める事に成功する。生産台数30台。

709709709709

1976年に入ってFJ1300の2作目710と同時進行でFL500の711が完成、710はレース中のアクシデントで開発が中止に、711は4台製作。

710710711711

711B1977年には、前作の711をモディファィした711Bを製作、主にカウルワークを中心に、スポーツカーノーズの採用やサイドポンツーンの見直し等でドラッグが大幅に低減、畑川治が見事シリーズチャンピオンを獲得する。生産台数4台。



ここまでが東大阪のハヤシレーシング(ハヤシカーショップ)で造られたレーシングカーで、次作からは本格的な鈴鹿工場で生産が始まる事になる。


1 2 3

PAGE TOP